Caerphilly 城
イングランドで最大の城はウィンザー(Windsor)城であるが、ウェールズ内ではこの城が一番規模が大きい。エドワード1世がウェールズ北方に建設し、世界遺産に認定された4箇所の城は完成度で卓越しているが、この城はそれらより前に建設され、しかも国王の建設ではなく、イングランドの一貴族が造営した点が注目される。現在でも保存が行き届いている。
建設したのはグロスター(Gloucester)伯でヘレフォード(Hereford)伯のギルバート・デクレア(Red Gilbert
de Clare)。 この地帯では、イングランドの貴族と、ウェールズの豪族が勢力争いにしのぎを削っていた。
紀元75年にカーレオン(Caerleon)とよばれた地域に、ローマ軍の500人規模の駐屯地があったが、ローマ軍が引き揚げた後は、1000年間歴史の舞台から遠ざかっていた。
1072年にウィリアム征服王(William the Conqueror)は、ウェールズに侵攻したが、その後1081年になってカーディフ(Cardiff)を中心に本格的なウェールズ支配を開始した。
1217年以降、ここグラモーガン(Glamorgan)地域一帯は、デクレア(de Clare)家の支配下に入る。デクレア家はリチャード(Richard)、ギルバート(Gilbert)、リチャード、ギルバートの4代でこの地域で最大の貴族となった。
一方、1260年代になるとウェールズの豪族のスリウェリン・アプ・グリュフィド(Llywelyn ap Gruffydd)が強大になって、南下してきた。そのため、デクレア一族 と一触即発の状況となった。デクレアはシモン・ド・モンフォール(Simon de Monfort)に与してヘンリー3世と戦ったが、ヘンリー3世に与した、スリウェリンは1265年6月の条約で、ウェールズ王(Prince of Wales)の称号を得ることになる。デクレアとしては、耐えられないことであった。
そこで、1265年にはエドワード王太子(後のエドワード1世)に与して、モンフォールに勝利した。その勢いで、ケニルワース(Kenilworth)城に立て籠もった、モンフォールの息子を包囲したが、その際、湖で守られている城の防衛力の卓越性を見せつけられることになる。
この、城が湖に囲まれているというアイデアがカーフィリー(Caerphilly)城建設に役立った。1267年9月、モンゴメリー(Montgomery)条約で、スリウェリンが正式に王(Prince of Wales)に承認されると、デクレアは1268年に城の建設に着手した。これに対し、1270年にスリウェリンはカーフィリー城を攻め焼失させている。 モンゴメリー城参照。
デクレアは1271年に築城を再開したが、ヘンリー3世は、コベントリー(Coventry)の司教とウースター(Worcester)の司教に仲介させ、デクレアの説得に当たったが、奏功しなかった。
ヘンリー3世を継いだ、エドワード1世は、1274年に十字軍から帰国。1276年以降、本格的にウェールズ征服に乗り出す。1282年にはスリウェリン王は殺害され、その結果デクレアにとって皮肉なことに、この城の存在価値は無くなってしまった。
1295年、ギルバート(Red-Gilbert)が死去、妻でエドワード1世の娘のジョアン(Joan de Acre)が引き継いだが、1314年スコットランドとのバノックバーン(Bannockbern)の戦闘で息子が戦死し、男系が絶えた。
エドワード2世のお気に入りの、ヒュー・デスペンサー(Hugh Despenser)はギルバートの3女と結婚し、城の主になる。デスペンサーは一時、チェップストウ(Chepstow)城からペンブローク(Pembroke)城までウェールズ南部一帯を支配する勢いを示した。
しかし、エドワード2世とデスペンサーはエドワード2世の王妃のイザベラ(Isabella)と貴族連合軍のモーティマー(Mortimer)の軍に追われて、ロンドン⇒グロスター(Gloucester)⇒チェプストウ⇒カーディフ(Cardiff)⇒カーフィリーへと逃げてきた。結局、デスペンサーは処刑され、エドワード2世もバークレイ(Berkeley)城に幽閉されて殺害された。
カーフィリー城には、25人の騎士と400人の兵士が籠っていたが許され、その名前の記録が残っている。城内には、800本の槍、14本のオランダ製の斧、1130本のクロスボウ用の大矢、78頭の牛。280頭の羊。7トンのワイン等が備蓄されていた。王用のベッド、マットレス、剣、鎧、もあった。
1416年に、カーディフ城に住むウースター(Worcester)伯のリチャード・ビーチャム(Richard Beaucham)の所有となり、1449年には、ウォーリック(Warwick)伯のものとなるが、城は無視され、廃墟となった。
城は、高い外側の壁(Outerwall)と低い内側の壁(Innerwall)の二重の壁に囲まれ、その間が比較的狭く、四隅に塔がそびえ、城内には天守(Keep)の存在が認められない。この築城方式を集中(Concentrick)様式の城と呼び、カーフィリー城は最初に建設された例と言える。周囲は広い池で囲まれ、合計の敷地面積は30エーカーある。
当初は城壁は白く塗られて、光り輝いていたとされる。
入城するには、先ず外堀を超える必要がある。橋(Drawbridge)は巻き上げると扉代わりになる。次に外側のゲイトハウス(Outer Main
Gatehouse)を通るが、落とし格子戸(Portcullis)と扉が有る。上には溝があり、そこから敵に向かって滑らせるように石や熱湯などを落とす。超えたところにダムの堤が在り、また橋を渡ってゲイトハウス(Outer Gatehouse )を通り、中庭(Middle ward)に到達する。更にゲイトハウス(Inner Gatehouse)を通って、やっと城内に到着することができる。