Conwy 城
1283年に建設開始し、5年間で完成した。
城は周囲を掘(Ditch)に守られ、跳ね橋(Drawbridge)から外門(Outergate)を通ると、城門(Barbican)に着く。城には従来の城に多くみられたゲイトハウス(Gatehouse)がない。代わりに城門の前は狭く、2本の円柱形の塔(Tower)でガードされている。
門(Gate)をくぐると、外庭(Outer-Ward)に入ることができる。突き当たりの中央分離壁(Cross Wall)を通ると内庭(Inner-Ward)に入る。動線は、一直線に配置されており、いわゆる天守(Keep)は無い。周囲に配置されているどの円柱形の塔(Tower)からも城外と城内が見通せる。
外庭部分は6本の塔で囲まれており、中には教会や大広間があり、井戸や台所が設置されていた。
内庭には、跳ね橋を備えた狭い門を通り入ることになる。四方を円形の塔で囲まれた空間は、王と王妃の居住地区となっており、王の礼拝所が塔の中に設置されていた。これから先は海で、陸上からの攻撃にさらされることはない。
コンウィー城を見て行くときには、城そのものを単独で見るのではなく、1400yardにも及ぶ街を囲む市街壁(City-Wall)を共に見る必要がある。
市街壁には21箇所に半円形の塔(Tower)がほぼ等間隔で並んでいる。現在でもその多くを当時の形態で見ることができる。街に入る門は、海から1箇所と陸からは2箇所に門があった。
このように厳重に包囲された市街壁は、城の城壁の外側の壁とみなすことができ、城防衛上は一体となっている点に注目。この城の最大の特徴ともいえる。
城は、三角形の街の市街壁の頂点に位置し、市街壁内の中央には教会を配置していた。
現在の道路は、昔の外堀(Outer-Ditch)を埋め立てたもので、鉄道が市街壁の中まで入っている。ただし、鉄道の橋も城の景観を邪魔しないように設計されている。
城内の円柱形の塔の上に更に塔を重ねる方式は、イングランドの城ではコンウィー城以前には無かった。これは、エドワード1世が十字軍に出陣し、コンスタンチノープル(Constantinople)の城から影響を受けたと看做されている。昔の人は、目も良かったろうから、相当遠くまで見渡すことができたのではないかと思われる。
1399年、アイルランド(Ireland)から帰った、リチャード2世を出迎えた、ヘンリー・パーシー(Henry Percy)は、フリント(Flint)城に向かう途中で、リチャード2世を捕縛した。その後リチャード2世は王位をヘンリー・ボーリングブローク(Henry Bolingbroke)に譲渡させられた後に処刑されており、ヘンリー4世へと王位が変わるきっかけとなった。
1609年当時より、城は崩壊が始まり、1628年にコンウィー子爵に£100で売却された。
1646年の内乱(Civil-War)時代、コンウィー出身者のヨーク(York)大司教が自費で城を補強し、議会派と一戦を交えたが、あっけなく敗北。城内が狭いので十分な食料が保管できず、特に川があふれると船で近づくことができず、補給も利かず籠城には向いていなかった。そもそも、攻撃用に建設した城で、防衛中心の旧来の城とコンセプトが異なっていた。
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見所の写真多数。スタンプ・クイズラリーのようなものもあり、楽しく観光できる。
Conwy Castle & Town Walls (iPhoneアプリは以下参照)