Cilgerran 城
1164年に初めてリス(Lord Rhys)卿が城を占領した記録が出てくる。1204年にウィリアム・マーシャル(William Marshal)が占領。1215年にはスリウェリン大王(Llywelyn the Great)が占領したが、1223年にウィリアムの息子のペンブローク(Pembroke)伯のウィリアム・マーシャル(William Marshal) が再占領した。
ウェールズの最西端の土地をめぐり、イングランドとウェールズの間で争奪戦が繰り広げられた。
現在では、痕跡を残さぬ外側のゲイトハウス(Gatehouse)を通ると、城の外庭(Outer Ward)に入る。さらに濠(Ditch)に掛かる橋を渡り、方形の3階建ての内側のゲイトハウスを通って、内庭(Inner Ward)に入る。内庭の突き当たりに川を背にした北塔がある。
東西に並ぶ2本の重量感のある太い塔はホワイト(White)城に類似している。ひと際大きな西塔には2階と3階に炉跡があり、居住用だったと推測される。塔には木造の外階段を使用して2階から入っていたが、後に入り口は1階に改修された。
ゲイトハウスと東西の塔を結ぶ城壁には胸壁が施され、壁垣(Curtain-Wall)は通行が可能だった。通路の円形天井(Vault)の積み上げ方式を見ても滑らかにしておらず、無骨な印象を与える。
ヘンリー5世が弟のグロスター公(Duke of
Gloucester)のハンフリー(Humphrey)に与えた。100年戦争時は、エドワード3世がフランスからの攻撃を予測して城を強化したが、フランスからの攻撃は無かった。
17世紀初めになって、城の脇に居住用の建屋を新築したために、城は使われず廃墟となった。
テイフィ川はシャケ(Salmon)が遡上する川で、13世紀には主要な産業であった。